2014年7月31日木曜日

うつ病を克服するのに一番手っ取り早い方法

うつ病を克服


うつ病を克服する、しかも根本的に克服するためには、

医者でもなく、薬でもなく、

真我に目覚めることです。


別の言い方をすれば、
苦しみを創りだしていたのは、
自分のエゴと思考であった…
ということを見破ることです。


うつ病について、医学的な見地からは色々な説がありますが、

うつ病というのは、本当の真実は…

自分の思考が創りだしたストーリーに
自分自身が乗っ取られて、
不安と恐怖で身動きが取れなくなっている状態です。

これがうつ病の真実です。


この真実を認め、ストーリーの嘘を見破らない限りは、本当の意味でのうつ病の完治は難しいと思います。

逆に、うつ病も含めて、全ての苦悩は、自らの思考が創りだしていたんだ…

という真実に気付くことができたなら、
うつ病が治るのはもちろんのこと、
全ての苦悩から解放されます。


ただ、そこに至るまでには、今まで自分が信じてきた世界や自分自身を一度解体する必要があります。

一昨日の記事「死んだつもりで生きてみる

昨日の記事「私は死にました…


最終的には、自分の思考・マインドを見破り、真我につながることでしか本当の意味では欝は治らないし、上記記事に書いたことは全て僕が体験した真実です。

でも、精神世界に免疫のない人にとっては、

真我って何?(・_・;)

というところもあるし、ちょっとディープな世界なので、今日は違う角度から、誰でも簡単に実践できる

欝を克服するための方法を紹介します。


うつ病を克服するための手軽でシンプルな方法


うつ病を克服するための、最も手っ取り早い方法…

それはランニングです。
(・∀・)


ランニングをすれば欝は治っていくし、逆にランニングをしている人は欝にはならないです(たぶん…)。

ただ、問題は、実際にうつ病の人は、走る元気なんかない… という現実です。

僕も、うつ病がMAXの時は、走ることはおろか、部屋から出ることもできず、立ち上がることすら困難だったので、その状況がよくわかります。

なので、走る元気なんてとてもない…

という人は無理に走る必要は全くありません。

とにかく橫になってでも、しっかり心と身体を休めてほしいと思います。

なので、以下のお話は、うつ病から回復しつつある人(動き出そう…という気持ちが出てきた人)

あるいは

なんだか最近、ストレスがきつくて、不安も大きくて、このままだと欝になるかも… と心配している人

動けないほどのうつ病ではないけど、パニック障害や不安障害をもっている人

などにオススメしたいと思います。


精神科医もオススメするランニングの効用


現在僕は2014年9月のハーフマラソン、11月のフルマラソンに向けて、日々ランニングに励んでいるのですが、ランニングをはじめてから本当にあらゆる面でいいことずくめです。

こんなことをいっている僕ですが、決して体育会系の人間ではなく、典型的な文系・サブカル好きのインドア派です。

マラソンを走る人の気がしれなかったし、走るのも大嫌いでした。

でも、うつ病が治ると同時に、無性に走りたくなり、人生初のマラソンに挑戦しよう!

という気分になりました。
(くわしくは別ブログで→ランナーズ・ハイ

そんな風にトレーニングに励む日々なので、今日も本屋で見つけた下記の本を読んでました。


すると、この本の中に、僕がまさしく最近ずっと感じていたことが書かれていました。

下記の原文のまま引用します。

ランニングは前へ前へと動いていくスポーツなので、自然と考えが前向きになってきます。最近は精神科医の先生でランニングを勧めている方もいます。左右均等に動く運動は自律神経をコントロールし、自律神経失調症に効果があるそうです。

また、ランニング中に「ランナーズハイ」がおとずれる時があります。少し気分がよく、運動して汗をかいているのが気持ちいいと感じる状態になります。

人間は生活している中で、たくさんのストレスを抱えているので、何も考えない「無」になれる時間がどうしても必要です。しかし、「座って何も考えなくてもいいよ」といわれても、知らずしらずのうちに、何かが頭の中に浮かんできてしまいます。それがランニングをしていると、何も考えない状態で走ることができます。これが実に脳にいい効果をもたらすそうです。自律神経のバランスが崩れた人が、ランニングやウォーキングをすることで回復したり、走ることによって、脳内にアルファ波が出て、物の考え方が前向きになったりします。

他にも走ることによってプラスの効果がたくさんあります。運動をして、体が疲れるのでよく眠れるようになります。
人間は眠れないと精神的にも悪い影響が出てしまいます。私は夜眠れるようになってから、心身のバランスもよくなりました。走っている人は、この心身のバランスが取れている人が多いです。さらに免疫力が強くなって風邪をひかなくなったり、極度の冷え性が治ったりもしました。腰も痛くならないし、基礎代謝が上がるので、太らない体質に変わりました。お酒の量も自然と減り、まさにランニングをはじめてから、私にとっては、いいことずくめの毎日です。

と書かれています。

僕はまだ、走り始めて二ヶ月ちょっとですが、全く同様に感じています。

走ることはまさに瞑想だと思うし、座って行う瞑想が苦手な人は、走るほうがはるかに瞑想状態に入りやすいと思います。

肉体が強くなれば、精神も必ず強くなります。

なぜなら霊と体は一致するという宇宙の法則があるからです。

(このテーマ、明日につづきます)


編集後期

今まで、このブログでは1話完結方式で、最後まで書ききっていたのですが、今回はじめて、〝つづきます〟というスタイルをとらせていただきました。

理由としては、僕の文章はいつも長いからです…

奧さんにもしょっちゅう、「あんたの話しは長い!」「結論から言って…(冷めた声で)」と責められています…(汗)

確かに読み返すといつも長いので、長くなりそうな時は2回とかに分けたほうがいいかな… と最近思ってました。

というのは表向きの理由で…

本当は
毎日書いていると、ネタが切れてくるので、
もっと小出しに記事を引っ張れば、
楽ができる!
(・∀・)

と思っているからです…(滝汗)


以前は月に5回ぐらいの更新だったので問題なかったのですが、最近何を思ったか

毎日更新するぞ!

と自分の中で決めちゃったもんで、自分のクビを自らしめている感じです…

が、とにかく気持ちが続くかぎりは毎日更新! というのをしばらく続けていきたいと思ってます。


おすすめの本【マラソン・ランニング編】

そもそも僕がマラソンに挑戦したい! と思ってしまったのは、この本のせいです…


そして、実際に走り始めて、長年の不摂生により、当然のごとく膝や腰がやばくなってきて、あわてて買った本がこちらです。





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最近書いた記事

私は死にました…

死んだつもりで生きてみる

うつ病を治す方法…〝もう少し落ちよう〟と敢えて考えてみる

葉っぱの声が聞こえたよ

自分に◯をあげよう

瞑想は危険!? 発狂するという噂もありますが…

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2014年7月30日水曜日

私は死にました…

私は死にました…


昨日の記事「死んだつもりで生きてみる」において、

◯常に死を意識して、今という瞬間を楽しみ、人生を充実させる

ということについて、僕自身が一度死んだつもりで開き直ったら欝が治った…

という体験を書きました。

記事を書いてから一日たって、もう少し補足したおきたい事が出てきましたので、そのことについて本日は書きます。


自分が何者なのかわからなくなってきた


うつ病以前の時から、僕は信仰をもっていたし、スピリチュアル系の本も好んで読んでいました。

ジェームス・アレンの「原因と結果の法則」シリーズとか

ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」シリーズとかも、発売当時(20代の時)に読んで、なるほど… などと思っていました。

ただ当時は読み方が浅かったと思うし、精神世界の本を読んでも、常に自分が信仰している宗教の教えと比べてみて、宗教の教えと本の内容が一致していると、「なるほどそうだ、そうだ!」と思い、一致していないと「なんだかこの内容は違うな…」という読み方をしていたと思います。

でも、2013年の秋にうつ病を発症してからは、精神世界の本の読み方が全く変わりました。

とにかく救われたい一心で、すがるような気持ちで読みました。

そして意識していたわけではないのですが、今になって気がつけば僕が読んでいた精神世界の本は、ほとんどがアドヴァイタ系(非二元論・悟り系)の本でした。

ラマナ・マハリシ、エックハルト・トール、アジャシャンティ、ガンガジ、などなど…

それらの本に書かれていることは、はっきり言って僕にとってはかなり衝撃的なものでした。

いままで信じてきた神道の教えとも重なる部分もありましたが、神道の教えには収まりきらない教えも多く、正直ボクの理解を超えている内容ばかりが書かれていました。

アドヴァイタ系の本には、切り口は違えども、大体一致している内容としては…

悟りこそが人生の目的である

悟りは遠いどこかにあるのではなく、自分の中に悟りはある

自分というものは存在しない

この世には善も悪もない

ほとんどの人はエゴ・マインドによって自ら創作したストーリーの幻想世界に住んでいる

あなたと私、神と私という分離感はマインドが作りだした幻想、全てはワンネスで同じ命でつながっている

悟りに努力はいらない、求めれば求めるほど悟りは逃げていく

悟りとは気付きである

この世は幻想世界

人生とはスクリーンに映しだされた幻想、映画が終わっても変わらずそこにある真っ白なスクリーンこそが自分であり、永遠なる意識

人生とはゲームであり、この世界は壮大なるジョークである

全ての人にはカルマがある

ダルマの流れにまかせればすべて上手くいく

何をするかよりも、どう〝在る〟かが大事

あなたはただ〝在れ〟ばいい

天国や地獄など存在しない

真我こそ本当の自分で、あなたが神なのである

あるがままで在るのがよい

などなど………

ちょっと話しがぶっ飛んでいて、正直、最初は信じられないというか、かなり混乱してしまいました…

僕はそれまで、もっと伝統的な神道の教えを信奉していましたので、余計に混乱してしまいました。

正直、真我という言葉もこの時はじめて知りました。

これらの本にかかれていることが真実なのかどうかはわからないけど、もし本当であれば、すごいことが書かれていると思いました。

ただ、そこに書かれている内容は僕が39年間信じてきた信仰の教えとは、かなり違う部分があり、自分でもどう消化してよいかわからず、でも、真実の圧倒的なパワーの前に、僕の信仰感とか人生感とか価値観は大きく揺さぶられました。

そして、それらの本には

「今まで自分が現実だと信じてきたことを全て疑え」

「あなたは、あなた自身のエゴ・マインドが創りだしたストーリーを信じ込んでいる」

とも書かれていました。

僕は、今まで39年間、ずっと信じて、見て、感じて、喜怒哀楽をもって生きていたこの現実世界を一度、幻想だったと過程して、冷静に見てみようと思いました。

でも、それは自分のこれまでの人生を、そして自分自身を否定するようで、本当に恐ろしくもあったし、頭がおかしくなりそうな恐怖もありました。

でも、今の僕はうつ病で、そもそもがおかしくなっているし、メンタルクリニックに通ったり、薬を飲んだり、神さまに祈ったり、できることは全部やって、打つべき手は打って… でも欝は全然よくならないし、もう最期の手段として、自分の人生が幻想だったと仮定して、自分のマインドから一歩離れて、自分のこれまでと、自分自身を観察してみることにしました。


マインドと一体化していた幻想の自分の死


自分の人生を否定するような作業に取り組むのは困難でした…

そして、途中からはもう自分が何者なのか… 世界の真実は何なのか… すべてがわからなく混乱してきて、頭がおかしくなりそうになりました。

言うなれば、自分が生きてきたこの世界が根底からガラガラと崩れてていくような恐怖がありました。

「精神世界の本を読みすぎて、頭がおかしくなっていっている… 真我も悟りも幻想だから、そんなことはやめて、早く社会復帰できるように、現実世界にもどれ!」

という声が自分の中から聞こえてきました。

この時に、真我探求や悟りを求めることを一切やめたほうがいいかも…

と何度も思いました。

でも、僕はやめませんでした。

なぜなら、マインドが最も恐れているのは、マインドの正体を見破られることです。なので、悟りや真実を求め始めると、マインドはそれを全力で阻止してくるのです。

僕が読んできた本には、そういったマインドの罠についても書かれていたので、

これこそがマインドの罠か? 

と思いつつ、自分の思考を観察すること、
これまでの人生を振り返ること、
自分の中の真我につながることを、求め続けました。

そして、最後には僕はついに死にました…

といっても、それは本当の僕(真我)ではなく、僕が僕だと思っていた幻想の僕(マインド・エゴ)の死でした。


思考が作りあげていた僕の人生


最終的に、僕は

僕だと思っていた僕は、僕ではなかった…

という真理に到達することができました。

そこに至るまでには、様々な障害があったり、かなり苦しい作業ではあったけど、
多くのスピリチュアルティーチャーの本を通してのメッセージが僕を真実へと到達させてくれました。
また、メンターさんからのメッセージにも何度も助けられました。

エゴやマインドがどれだけ巧妙でも、真理に勝つことはできません。

思考だけで生きている大人たちの住む、思考にあふれた世界で、僕もまた思考だけで生きてきたことがはっきりとわかりました。

宗教に対する信仰もまた、スピリチュアルなエゴとマインドを強固に築いていたことにも気が付きました。

宗教は、僕たちが真理に目覚めるための入り口ともなってくれる素晴らしい面もありますが、宗教的エゴというか、この世界で最も強烈な思考の支配力を持っているのも、また宗教であるということがはっきりとわかりました。
(もちろん、エゴのない愛と善と真に満ちた純粋な信仰は尊いものです)

僕は僕(エゴ・マインド)として、精一杯にこの世界で生きてきました。

でも、いつでも、自分は自分、あなたはあなた。私と神… という分離感で生きていました。

人を悪く思ったり、挫折したりしたことを、後悔したりしてきましたが、それらは全部、僕の思考が作り上げたストーリーであったことがはっきりとわかりました。

でも、それらの体験もまた、
僕にとっては必要なプロセスであった…

ということもはっきりとわかりました。

そういう理解ができると、僕の今までの人生には何一つ無駄はなく、失敗が失敗でなくなり、後悔が後悔でなくなりました。

僕は僕でよかったんです。間違いは一つもなかったのです。

(もちろん、
 あなたもあなたでいいんです。
 あなたが今どんな状況にあるとしても、
 間違いは一つもありません)

この真実は本当の大きな救いとなりました。

まさに神の恩寵でした。


僕は現在40歳ですが、もし欝にならなければ、僕は人生の後半戦もきっとエゴ・マインドのままで生きていて、終わりのない苦悩に生きていたと思います。

でも、僕は幸いなことに欝になったことで、真理をつかむことができました。

だから、僕は何度でもいいます。

欝は神の恩寵である。

と。

本当に壮大なシナリオを神さまは用意してくれていたものだと思います。

欝になり、そして真我を知り、マインドを見破り、真理を知ることで、それまでの自我人間の僕は死にました。

エゴでがんばって生きてきた自分… たいへんだったね… ご苦労さんだったね… エゴでがんばって生きてきてくれてありがとう… という感謝の気持ちをもって、僕はそれまでの自分(エゴ・マインド)にサヨナラをしました。


本当の人生がはじまる


そうやって、今、僕はあるがままの本当の自分(真我)として生きることができるようになりました。

(といっても、エゴもマインドもちゃんと?残ってます…(^_^;)
 ただ、それに支配されることはなくなりました)

今までは、何かアクシデントのようなことが起きると、条件反射的にエゴとマインドで反応していましたが、今はそのようなことはほとんどなくなりました。

また、人生には必ず苦手な人というのが、どの時代にも、どの場所にもいたものですが、この目覚め移行は、感謝する人はいくらでもいますが、苦手な人は1人もいません。

本当に不思議なぐらいに、会う人すべてが素晴らしい人ばかりです。

この現実世界は、100パーセントあなたの心の反映です。

不信感は不信感に満ちた世界を生み

愛は愛に満ちた世界をつくりだします。


私は死にました【まとめ】


あなたが現在、欝を患っていたり、あるいは欝ではないとしても、大きな悩みや苦しみを抱えているとしても安心してください。

苦しんでいるのは、本当の〝あなた〟ではなく、思考とマインドで条件反射的に生きている偽りの〝あなた〟です。

どんな状況にあっても、どんな人間関係の問題があっても、どんな経済的な苦労があっても、それらの問題や苦しみを作っているのは、あなたの思考でありマインドです。

この苦しんでいるのは本当の私だろうか?

私に見えているこの世界は、本当に真実なのだろうか?

あふれる情報に飲み込まれ、思考で条件反射的に生きている自分を一度疑ってみてください。

そして、一度立ち止まって、とことんまで、自分の内面深くまで入っていってください。

全て自分が作り上げたストーリーであったと仮定して、ただひたすらに〝いまここ〟に集中してください。

そして、外にいる神さまではなく、自分の中に神さまがいる、さらには自分自身が本当は神なんだ… ということを、たとえ信じられなくても、一度仮定してみてください。

そして、この世界に善悪はなく、自分はただ体験するために(良きこともそうでないことも)この世界に生まれてきたのだと仮定してください。

過去も未来も考えないでください。

その時、まさに〝いまここ〟にただ〝在る〟自分には、

全く何の問題もない

ということが腑に落ちます。


編集後記

今日もあまりテーマを決めずに書きだしたのですが、スラスラと書けました。

今日書いた内容は、多くのスピリチュアルティーチャーがいっていることであり、また僕が実際に体験して腑に落ちた部分です。

エゴ・マインドで生きてきた自分とはいえ、自分が信じてきた世界と、自分自身を捨てることは、たいへんなことでした。

でも、その壁を超え、幻想を見破ることができると、驚くぐらいに不安や恐怖のない、穏やかな世界が広がっています。

そして、世界は崩壊せずに、今まで通りにちゃんと世界はまわっています。

ただ、見え方は変わってきて、

世界も自分もあるがままでOKなんだ…

というふうになり、無理がなく、自分らしくナチュラルに生きられる世界になります。


おすすめの本

僕がエゴの自分にさよならをしようとして、そして思考で作り上げた世界が崩壊していって、頭が一番混乱していた時に、力になってくれたのが、

アジャシャンティさんの本「あなたの世界の終わりでした」。

当時はただすがるような思いで読んでいたので、内容はあまり残っていなかったのですが、今、再び読み返してみると、スゴイことが書いてあります。

悟った後のことを主題に書かれた本ですが、その部分について書かれた本は意外に少ないので、貴重な本だと思います。


アジャさんは7歳の時に、大人は思考を現実と信じこんで生きている(クレイジー)と見破ったような人で、瞳の澄んだ、まさに覚者という人で、大好きな人です。


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最近書いた記事

死んだつもりで生きてみる

うつ病を治す方法…〝もう少し落ちよう〟と敢えて考えてみる

葉っぱの声が聞こえたよ

自分に◯をあげよう

瞑想は危険!? 発狂するという噂もありますが…

瞑想は危険!? いやいや…自我こそが憑依霊なんですよ

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2014年7月29日火曜日

死んだつもりで生きてみる

昨日の記事「うつ病を治す方法…〝もう少し落ちよう〟と敢えて考えてみる」では、

「人生を楽にする」ための3カ条として、下記の3カ条を紹介しました。

◯失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える

◯大切なことをするときは、力を入れるのではなく、力を抜く

◯常に死を意識して、今という瞬間を楽しみ、人生を充実させる

そして、その中の1カ条目の
◯失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える
について、自分の体験談も交えながら、その有効性について紹介しました。

今日は、3つ目の
◯常に死を意識して、今という瞬間を楽しみ、人生を充実させる
ということについて、僕の理解を書きます。


欝になった時、「このまま欝でもかまわない…」と逆転の発想をしたことで、欝がどんどんと好転していったことについて、昨日書きましたが、その時僕は同時に、

死んでもかまわない…

ということも思ったんです。

これは、自殺しようとか、自暴自棄とかそんなのでは全然なくて、正確に言うなら、

僕は神さまと宇宙を心から信頼する
僕の欝に関しても、もう心配せずに、宇宙と神さまを信頼する
自分の生き死にということに関しても宇宙と神さまにおまかせする。

というような気持ちでした。

そして、僕にまだ使命であったり、学ぶべきことが残っているなら、死にたいと思っていても死なないし、この世での生を卒業するべき時が来たらその時は光の中に帰っていくんだろうな… という感覚になりました。

それに欝が一番ひどかった時の僕は、本当に死んでいたようなものでした…

努力して這い上がる… とかそんな状況では全くなく、

もう、全てに降参するしかない状況でした。

そして、神さまを信じ切らないことには生きていく力が一滴も残っていませんでした。

そのときの僕の決断が

人として生きるのではなく、神として生きる

というものでした。

エゴ・マインドであがるのはもうやめて、どこまでも神さまを、そして自分の中の神を信頼するという決断でした。

その決断移行、本当に人生が軽く、楽になりました。

今でも、死んだつもりで生きているという部分はあります。

欝になって、職場とかいろんなものを失ったし、実際一度死んだような僕の人生でした。

でも、死ぬ時は死ぬ時と割りきって、今日に感謝して生きることで、僕の生命力は逆にパワーアップしています。

一瞬感じたとしても、不安や恐怖に支配されることはないし、物事に一喜一憂することもなくなりました。

そして、毎日ありがたいな… 嬉しいな… とうことがどんどん増えてきました。

人間の心配・不安・恐怖の根源は死です。

欝が治るかどうかという心配も

就職できるかどうかという心配も

仲間はずれにされている… という心痛も

収入が低い… という心配も

結婚できるだろうか? という不安も

最終的には、仕事がなく、収入もなく、パートナーもいなく、友達もいなく、心も病んでいたら、生きていけない… すなわち死んでしまう… という恐怖です。

でも、逆説的な話しですが、死んでもいい、最悪でも死ぬだけ… みたいな開きなおりと、宇宙への降参、神への絶対の信頼を持つと

物事は全て好転していきます。

死の恐怖を乗り越えたなら、この世の他の心配事なんてとるにたりないものです。^^


おすすめの本

アジャシャンティさんの本「あなたの世界の終わり」を読み直しています。

欝がいちばんひどかった時に読んだので、内容をほとんど忘れていたのですが、今読み返すと全ページに真理が書かれています…(^_^;)




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2014年7月28日月曜日

うつ病を治す方法…〝もう少し落ちよう〟と敢えて考えてみる



雑誌「クーリエ・ジャポン」9月号に面白い記事がのっていました。

その記事には、僕がうつ病を治す過程で思っていたことと重なる部分があったので、記事を引用しながら、僕の体験を紹介しますね。


日々を楽しく生きるヒント


クーリエ・ジャポンの今月号は〝もっと「シンプル」に考えよう〟というテーマだったのですが、その特集記事の中に

「ヨーガ行者の王」が教える日々を楽しく生きるヒント

という見開きのページがありました。

執筆者は、ヨーガ行者で成瀬ヨーガグループを主催している成瀬雅春さん。


記事では、まず瞑想の大切さについて下記のように言及しています。

今、欧米では瞑想がブームだそうで、それを受けて日本でも瞑想への関心が高まっていると聞きます。
瞑想はヨーガでも重要な技法の一つであり、私もぜひお勧めしたいと思います。
瞑想というのは、決して難しいものではありません。本質はいたってシンプルです。一言で言うと「自分を観察すること」です。呼吸をゆっくりと整え、リラックスして、自分に意志を向ける。心と身体はどんな状態にあるのか。身体のどこの感覚が普段と違うのか。心は何を欲しているのか。何にとらわれているのか……。そういった自分の状態を、離れた視点から細かく見つけていくのです。

そして、成瀬さんは、瞑想能力があがってくると、

誤った選択をする可能性が低くなり

複数の選択肢から最良の道をパッと選ぶ力が自然に磨かれていく

自分の生活や仕事の習慣を客観的に見ることができるようになり、改善することで前よりも良い結果がでるようになる…

と言っています。

確かに瞑想というのは、どこまでの自分の内側を観察し、自分の内側に入っていく行為です。

自分のことは自分が一番わからない… といいますが、確かにその通りで、瞑想という自分で自分を観察する習慣がなければ、人は常に自分というものを、他者からの評価を頼りに見ることしかできません。

また、テレビや新聞や雑誌や本など、溢れんばかりの大量の情報はどんどん入ってくるし、目の前の仕事にはいつも追われているし、マインド・思考は常に未来と過去のことに捕らわれて、グルグルと回り続け、

自分を静かに観察する

そんな瞬間は決して訪れません。

やはり瞑想をすることで、はじめて、自分というものを冷静に観察することができ、本当の自分を知り、本当に自分がしたいことを知ることができるようになります。

自分を知り、自分が心から欲していることを知ることができて、はじめて人間は、魂が落ち着き、一意専心して物事に取り組むことができるようになります。

とかく人間は、あれやこれやとマインドは休むこと無く余計なことを考えつづけていて、膨大なエネルギーをロスしています。

特に他者に対する怒りや恨みや批判… などは、完全に自分の貴重なエネルギーを大きく奪います。

瞑想なんてやっている時間はない… 

というような忙しなく生きている人こそ、瞑想をすることで、より生産性は上がり、生活の質も向上していくので、ぜひ瞑想を取り入れることをお勧めします。


「人生を楽にする」ための3カ条


クーリエ・ジャポンの記事に戻りますが、記事の後半では

「人生を楽にする」ための3カ条

として、下記の3カ条が紹介されています。

◯失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える

◯大切なことをするときは、力を入れるのではなく、力を抜く

◯常に死を意識して、今という瞬間を楽しみ、人生を充実させる


この1カ条目の
失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える
というのは、スゴイ真実をついた言葉です。

世間の価値観では、失敗したらそこから早く這い上がって挽回しよう…

というのが主流だと思いますが、成瀬さんは、それと真反対のことを主張しています。

エゴで生きていても、パワーがあるうちは、失敗しても挽回してやるという方式で乗り越えることはできると思います。

でも、例えばうつ病になってしまったり、長い人生の中では、大きな病気や愛する人の死など、どんな強い人でも精神的にボロボロになるぐらい落ち込む場面、がんばらないといけないのはわかっちゃいるけど、それでもがんばれない…

という状況になることは誰にだってきっとあると思います。

僕もうつ病になるまでは、失敗したら挽回しよう方式でがんばってきました。

でも、うつ病になった時は、がんばりたくてもがんばれなかったし、そもそもがんばる気力もなかったし、がんばりたくもない… という完全に電池が切れた状態になってしまいました。

でも、どんなどん底状態でも、人間にはエゴやマインドは残っています。

そこで、僕のマインドはこう言うのです。

「早くうつ病を治して社会復帰しないと、お前は本当に廃人のようになってしまうぞ…」
と。

僕のマインドは、「がんばらなきゃ…」と思います。

でも、どうしても力が湧いてこないし、そもそも外出することも部屋から出ることもできないのです。

がんばりたいけど、がんばれない…

そこで更にがんばれない自分を責め、自己嫌悪感が高まります。

そして、自分はダメな人間だと落ち込み、欝状態は更にひどくなっていきました。


欝を治すには考え方を変えるだけでいい


僕の欝が最悪の状況から、良い方向に進みだしたのは、たった一つの考え方を逆転させてからでした。

それは

「欝病を治したい…」

という考え方から

「一生うつ病でもかまわない…」

という風に考え方を変えた瞬間から、僕のうつ病は徐々によくなっていきました。

まさに、成瀬さんの言う

失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える

を知らず実践したことで、結果的に僕はうつ病から回復することができました。


うつ病になると、身体が動かないけど、その分、マインドの活動はグルグルと周り激しくなります。

それは、

私のうつ病は本当に治るだろうか?

いつ治るだろうか?

職場には復帰できるだろうか?

職場のみんなに迷惑をかけてるんだろうな…

職場のみんなは怒っているかもしれない…

このまま休職が続けばクビになるかな…

もう退職したほうがいいかな…

退職したら再就職できるかな?

精神科通いのレッテルを貼られているんだろうな…

自殺してしまったらどうしよう…

廃人になったらどうしよう…

気が狂ったらどうしよう…

うつ病が治らなかったらどうしよう…


こんなマインドが止まることなく頭の中を周りつづけます。

でも、こういうマインドが出てくるのは、結局、このうつ病という失敗からどうやって這い上がろう… いや、そもそも這い上がれるだろうか? 復帰できるだろうか…?

という心配や不安やプレッシャーがあるから、こういうマインドが止まらなくなるのです。

でも、ここで一度マインドにブレーキをかけ、開き直って

「欝が治らなくてもかまわない…」

「もっと落ちてもかまわない…」

「また欝が再発してもかまわない…」

「最悪死んでもかまわない…」

というように、すべてをあきらめ、現状を受け入れ、そんな自分を許すと…

不思議なことに、マインドの騒ぎは収まってしまうのです。

不安を感じたり心配するからマインドが大騒ぎするのです。

心配・不安・恐怖=マインドであり。

マインド=心配・不安・恐怖です。

なので、現状を受け入れて、宇宙に降参することで、心配も不安も恐怖もなくなって、マインドも落ち着きを取り戻します。

マインドが収まると、そこではじめて人は物事に対して冷静に善処することができるようになるのです。

なので、自分がうつ病の場合
「早くうつ病を治したい…」と念願しますが、その思いが余計に焦りと不安を生み出し、欝は長引きます。

「うつ病でもかまわない… 今はとにかくゆっくり休もう」
と、思うことで、うつ病は徐々の治っていきます。


うつ病を治す方法【まとめ】


人生を楽にする3カ条の2カ条目と3カ条目
◯大切なことをするときは、力を入れるのではなく、力を抜く

◯常に死を意識して、今という瞬間を楽しみ、人生を充実させる

も、とてもいいことが書いてあるのですが、今日は解説は割愛します。
(いつも長文になってしまう…(^_^;))

うつ病を治す方法や体験談はこのブログでも過去に何度も書いてきましたが、
この

◯失敗からは這い上がろうとせず、「もう少し落ちよう」と考える

という考え方は、欝を治す上で、とても大きな力を発揮してくれる考え方です。

もし、今あなたが欝で悩んでいるのであれば、ぜひ「うつを治したい…」「治さなきゃ…」というプレッシャーから自分を解放してあげて、〝欝を治すため〟にも「欝でもかまわん… ゆっくり休もう」という風に自分を許してあげてください。(*^_^*)


編集後期

公言しているわけではありませんが、自分の中だけの

ブログ毎日更新チャレンジ

が、9日間も続いています(・∀・)

どこまで続くかはわかんないけど、しばらく毎日更新を続けていきたいなと思っています。

今日も読んでくれてありがとうございます!(*^_^*)



読み応えのある雑誌

一時期、いろんな雑誌を読みまくってましたが、最近はほとんど雑誌は読まなくなってしまいました。

でもクーリエ・ジャポンは、良質な記事が多いので、わりに気に入ってます。



今月は特集の他にも
アドラー心理学超入門! とか
前世の記憶・生まれ変わりの謎! 
とか、良質な記事が多かったです。




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2014年7月27日日曜日

葉っぱの声が聞こえたよ




なんだかあぶないタイトルですが、今日は昨日の夜に体験した少し不思議な話を書きます。(今日はさくっと短文です(^_^;))

以前からマラソンにチャレンジしたいとは思っていて…

(きっかけは3年ぐらい前に読んだ村上春樹さんの「走ることについて語るときに僕の語ること」を読んだことでした)


3年ぐらい前にアディダスのランニングシューズとウェアを買って、近所を走ったり、フィットネスジムのトレッドミルで走ってみたりしていたのですが、仕事がかなり忙しかったり、招来なまけものの僕は、マラソン挑戦はおろか、ランニングも結局三日坊主で、3にち走って3か月休む… 気が向いたらまた走る… みたいな感じでした。

そんな僕だったのですが、現在はコンスタントにランニングをしています。

ランニングが続いている理由としては…

①仕事を辞めてフリーになったので、走るための時間はいくらでもある…

②9月のハーフマラソン、11月のフルマラソンにエントリーしたので、大いなる目標がある。

③走っているとランニングハイになって気持ちがいい!

の三点です。

そのように好条件が重なって、また人生初のフルマラソンを完走したいので、現在はコンスタントにランニングをしています。

といっても、まだ一月前ぐらいに走りだしたので、長年の不摂生もあり、最初は1キロも走れなかったし、膝と腰はガクガクだし、ひどいものでしたが、トレーニングすれば身体は素直に反応してくれて、日々少しずつより早く、より長く走れるようになってきました。

昨日は、自分にとっては最長距離となる15キロを走ったんですが、その時にちょっとしたワンネス体験的な、おもしろいことがあったので、その件について書きます。


その時、葉っぱの声が…


今日は15キロ走るぞ! と、かなり気合を入れて走りだしました。

でも、最初から飛ばすと必ず失速するので、あくまでもマイペースで疲れないように走ろうとゆっくりペースで走ってました。

10キロまでは割に順調に走れていたのですが、10キロを過ぎたぐらいから急に膝が痛くなってくるし、太ももとふくらはぎも急に重たくなってきて、脚が前に進まないようになってきました。

また、呼吸もかなり苦しくなってきて、これは15キロは無理かな…

なんて、少し弱気になってきました。

その時僕は、自宅から少し離れた大きな公園のグランドをぐるぐると走っていたのですが、いよいよもう限界かも… 息もあがってきて苦しい… ああ…
と思いながら走ってました。

その時ふっと上を見上げると、大きな木のたくさんの葉っぱが月明かりに照らされて風に揺れていました。

その瞬間に一瞬身体の中を電流が流れたような気がしました。

自分にとっては、本当に衝撃的で、おどろいたのですが、

その葉っぱがずっと僕を見て応援してくれている…

ということに気がついたんです。


何か直接的な実際の葉っぱの声が聞こえたわけではありませんが、僕にはまるで葉っぱが

「がんばれ〜^^」

と言ってくれているような気がしました。

公園のグラウンドは周囲を木に囲まれていて、僕はその木々に沿うようにしてグルグルと走っているのですが、今まで木とか葉っぱに対してそんなことを感じたことは一度もなかったのに、この瞬間に公園を囲む木や葉っぱと心がつながったような感覚がありました。

僕はゼエゼエと呼吸もあらく走っているのですが、実際問題として、僕の橫にたつ樹木の葉っぱは、僕の吐き出す二酸化炭素を吸い、逆に新鮮な酸素をずっと供給してくれています。

理科で習っていた話しだし、あたり前の話なんですが、実際に生活している中でそんなあたり前の事実を実感したことは今まで一度もありませんでした。

でも、昨日の夜は、樹木の呼吸を感じることが出来ました。

彼ら(木や葉っぱ)も僕らと同じ命で、決してものはいいませんが、僕たちと全く同質のいのちであり、意識をもっています。

そして、もっというならば、彼らは決して不平不満を言うこともなく、生まれ落ちた場所で、精一杯に〝いまここ〟に生きています。悟っています。

生まれてはじめて、植物と気持ちが通じたような感覚がありました。

そう思った瞬間、今までただ苦しいだけで無意識にしていた呼吸ですが

不思議なことに

急に、吸い込む空気に香りを感じはじめました…

それは植物や樹木特有の緑の香りでした。

とても、新鮮でおいしい空気で、
僕は急に呼吸が楽になりました。


「ありがとう! 葉っぱさん(・∀・)」

と思いながら、元気が回復して、その後は勇気をもって、15キロを歩かずに最後まで走ることができました。

以前、ボブ・フィックスさんの瞑想セミナーに行った時に、喫煙所であった参加者の方が、「ずっと瞑想を続けていると、ワンネス意識が高まってきて、時々、木とか植物の気持ちがわかる時がある…」ということをいっていましたが、そういうことってあるんだなと思います。

いろんな科学の実験の話しや、スピリチュアル系の本に紹介されているエピソードなどを読んで、

植物にもココロはある… 

と信じていたし、理解してました。

でも、実感をもって体験的に理解できたのは、生まれてはじめてでした。


11月には人生初のフルマラソンを走ることになっています。

完走したいけど、何があるかわからないし、実は不安やプレッシャーのようなものもあります。

でも、きっとフルマラソンの日にも、コースの橫には木があると思います。

苦しくなった時には木に助けてもらいながら走れば、きっとフルマラソンも完走できるんじゃないかな(*^_^*) 

なんて風に思えるようになりました。

僕にとっては、ちょっと忘れられない素敵な夜でした。

星空もいつもよりキレイでした☆



編集後期

昨日15キロ走ったので、やっぱり今日は筋肉痛&腰痛です…_| ̄|○

でも、ランニングをはじめた頃は1キロ走っただけでももっとひどい筋肉痛でした。

それを思えば、40のあまやかされた肉体でしたが、トレーニングを重ねることで、確実に鍛えられているんだなとおもいます。

そして、肉体が強くなった分だけ、僕の精神も強くなっているように感じます。

PS
ランニングブログも書いてます

ランナーズ・ハイ



思わず走りだしたくなる本

僕を走らせることになった理由のほとんど全ては、この1冊の本にあります。

マラソンを走ることになったので、また読み返そうと、書棚を探したら、どこにもない…

前々回の引っ越しの際に、あろうことか、僕は自分のもっている本(300冊は軽くあった)を全てブックオフにもっていったことを忘れていた…

村上春樹さんは大好きだったので、小説もエッセイも全部もっていたのですが、まさか全部売っていたとは…
_| ̄|○

しょうがないので、またAMAZONでポチります。




この本、AMAZONのレビューが激アツです。

この本を読んで走りだした、マラソンに出た…という僕と同類な人の多さにびっくりしましたが、それぐらいこの本には人を走らせる… 思わず走りたくなる… ようなパワーがあるのだと思います。(*^_^*)




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2014年7月26日土曜日

自分に◯をあげよう



何を書こうとも思うことなく、今キーボードを叩いています。

なのでこの記事のタイトルもまだ書いていません(書き終わってからタイトルを決めます)。

今日は、今この瞬間に僕が感じていることをそのままに書いていきます。


自分に◯をあげる


あなたは自分に◯(まる)をあげていますか?

僕は欝を経て、真我に触れてからはじめて、やっと自分に◯をだせるようになりました。

今から思えば僕は自我だけで生きていました。

それはつまり、ハートではなく思考(頭)で生きていて、思考に振り回されて、もっといえば思考に乗っ取られて生きていました。

常に、今の自分ではない、何者かになりたいと思ってきました。

そしてそのための努力もそれなりにやってきました。

生まれた時から、神道を信仰している家に生まれてきたので、神さまもずっと信じてきました。

困ったことがあれば神さまに祈り、また良きことがあった時にも神様に感謝の祈りをしてきました。

そんな風に育ってきたので、自分としては人を傷つけたりしないように、できれば親切に接するように生きてはきました。

でも、神さまはいつだって、僕の外側にいました。

人は神の子… という教えがあり、自分もそうだし、全ての人は神の子だと信じていました。

でも、今から思えば僕は「人は神の子」という言葉を表面上だけで受け取っていました。

神さまという全大宇宙を想像された存在があり、全ての生きとし生けるものを守り愛してくださっていると感謝はしていました。

でもやっぱり僕の中では神さまとは祈る対象であり、自分の中に神がいる、もっといえば自分こそが神(全ての人間が… という意味です)という風には思えていませんでした。

イノセントな少年時代を過ぎて、思春期に入ると友達の影響や世間の影響をモロに受けて、自分の道は自分でしっかり考えて、現実的に生きていくことが大切だと思うようになってきました。

ハートの声を無視して、本当に自分が心からやりたいことではなく、
やるべきことをやらなければならない…
と思うようになってきました。

学校教育でも、世間に出てからも、

「自分の頭でしっかり考えろ」

とか

「将来に備えてしっかり計画を立てて準備しろ」

など、頭・思考を使うように教えられることはあっても、

「あなたのハートの声をしっかり聞きなさい…」

とか

「自分らしくありなさい。自分の本当に心からやりたいことをやりなさい」

というような、ハート(真我)の声を聞きなさい… というようなアドバイスを受ける場面はほぼゼロだったと思います。

僕は、1人の人間として、頭を使い、現実にフィットさせるように努力して、向上心をもって生きてきました。

社会に出れば、どうしても馬のあわない人とも一緒に仕事をするし、心が汚いような人、人を騙したり、陥れたり、陰口をいうような人とも上手くやっていかなければなりません。

時に人とぶつかることもありましたが、トラブルやケンカが苦手な僕は、いつしか、自分を抑えて相手に合わせることがあたり前になってきました。

また、人の評価を受ければ喜び、評価が下がることを恐れていました。

ビジネス書を読みまくり、自己啓発書を読みまくり、ビジネスhacksを学び、もっと成長したい、もっと評価されたい… そんな風に毎日を生きていました。

大人になれば、また特に結婚し子供が生まれてきてからは、ただひたすら、目の前の現実に対応することに精一杯で、あれもやらきゃいけない… これもやらなきゃいけない… これを今すぐやるべきだ… みたいな感じでの日々でした。

毎日毎日、将来のことや、やるべきことを考えて考えて、思考だけで生きていました。

自分のやりたいこととか、自分が本当に感じていることに自分でも気づかないうちにフタをしていました。

ハートの声を無視して、いつのまにかハートからの声は完全に聞こえなくなっていました。


理想と現実の間にあるギャップを埋めるために、人は向上心を持ち、努力をします。

でも、それは裏を返せば今の自分ではまだまだダメだ… という自分へのダメ出しという側面もあります。

自分は変わらなければいけない、もっと成長しなければいけない…

と思うことはあっても、

自分は自分のままでいい、今を幸せに生きよう…

なんて風には思うことができませんでした。


そして…
だらしのない自分、できない自分、欲だらけの自分、弱い自分、調子にのる自分

そういう自分の負の部分が嫌でした…


ゴールはない…


そんな嫌な自分を克服するべく、努力をするわけですが、人生ってなかなか思う通りにはいきません… それに自分が成長したらしたで、もっと上を目指したくなります。

それは例えば人生の成長の階段の1段目にいるときは、2段目を目指しがんばりますが、いざ2段目に到達すると、その瞬間から2段目ではダメだ…と思い、すぐさま3段目を目指すようになります。

努力とか向上心というのは悪いものではありませんが、どうしても現状を否定してしまうという負の側面があります。

この現状を否定して、上を目指す… ということにはゴールはありません。

それが収入であれ、役職であれ、上にいったから満足するか… と言えば、決してそんなことはなく、逆に上に行けばいくほど、もっと欲は出るし、またそこからの転落を恐れるようになります。

いつでも行動することは将来への布石のためであり、〝いまここ〟に生きるという瞬間がありません。

今、というこの瞬間に満足していて幸せな人は、きっと1時間後も幸せだし、1日後も幸せだし、1年後も5年後も幸せに生きることができます。

それは、今にフォーカスして、現状に感謝しているからです。

今という瞬間の点が線となってずっと続いていくのです。

でも、未来のために、今を犠牲にしている人は、きっと1時間後も未来のために生きているし、一日後も一年後もきっと未来のために生きているでしょう。

それは、未来にフォーカスして、今に生きていないからです。

今という瞬間に〝今〟に生きていなければ、その点が線となり、永遠に今に生きることなく死んでいきます。


弱さも汚さも…


弱さや欲もまた肉体をもっている人間の特質の一部です。

その弱さや欲を僕は否定して生きてきましたが、欝という弱さの究極の状態に陥ってはじめて、僕は開き直ることができました。

そして、弱さのある自分にはじめてOKを出し◯を出してあげました。

欲のある自分にもOKを出してあげました。

すると、はじめて(幼年期時代以来の)自分のハートの声が聞こえてきました。

僕は僕のままでよかったのです。

もちろんあなたもあなたのままでよかったのです。

成長する中で、僕たちは思考に支配され、物事や他人やそして自分自身にも善悪のレッテルを貼ってきました。

でも本当は善も悪もないのです。

すべてはあるがままでOKなのです。

善と悪は人間の思考が作りだし、信じ込んでいる幻想にすぎません。

いつも不機嫌なあの人も、攻撃的なあの人も、善でも悪でもありません。

ただその人は思考に支配され、不安と恐れで生きているだけなのです。

本当は愛を求めているのに、それが自分でもわからずに、攻撃という形で現われているだけなのです。

いつでも自信がなく、いじけているあの人も、善でも悪でもありません。

その人もまた、思考に支配され、不安と恐れで生きているだけなのです。

本当は愛を求めているのに、それが自分でもわからずに、自己嫌悪という形で現れているだけなのです。


自分に◯をあげよう【まとめ】


思考に支配されていた僕は、自分の本当の◯◯したい! という気持ちを完全に忘れ、
◯◯せねばならない… という生き方をしてきました。

本当に自分の心の求めることをやっていないので、そこには何らかの無理があり、心からの満足感はありません。

また、思考に支配されていた僕は、いつだって人に合わせ、人の評価で自分を見ていました。

また、嫌いな人や苦手な人がいても、
その人にことを好きになろう… 好きにならないといけない…

と思いつつも、そうできない自分に☓をだしていました。

ですが、うつ病をへて、思考で生きていた自分にはじめて気がつき、自分の真我の存在を知ったことで、自分はあるがままでいいんだ… と思えるようになりました。

自分のあるがままを認めることができると、その波及効果として、他人も世の中も、すべてあるがままでOKに変わります。

好きとか嫌いといったことで無駄なエネルギーを浪費することもなくなりました。

あるがままになると、人や世界への抵抗がなくなり、不安や心配事もほとんどなくなります。

まずは自分に、今の自分に、
弱い自分に
汚い自分に
落ち込んでいる自分に
自信のない自分に
あるがままの自分に
◯をあげてください。

自由である本当のあなたに目覚め、世界が変わりだします。



編集後期

全くのノープランで記事を書き始めましたが、手がとまらなくなり、気がつけば長文になっていました…が、とにかく今日の僕がパッと思ったことは、

汚い自分でも
弱い自分でも
◯をあげたらいいやん!(僕もあなたも)

ということです。

聖人君子になんてなれないし、
ならなくてもいいんです!(・∀・)
(なってももちろんいい!)

人間って本当はもっと自由だし、すごいパワーをもっているはずです(だって人は神なんだから)。

でも、ほとんどの人は世間の常識に染められたり、数々の挫折体験をへて、傷つかないように、失敗しないように、本当の心を押し殺して生きているような気がします。

怒る時は怒ってもいいし、泣きたいときは泣けばいいし、
悲しみも喜びも、ぜんぶあるがままに感じて、
人の評価は気にせず、
自分の心に正直にもっとナチュラルに生きたら
人生はずっとずっと楽で幸せなものになると思います。^^



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瞑想は危険!? 発狂するという噂もありますが…



昨日、一昨日と2日続けて瞑想の危険性について、といっても瞑想は安全ですよ^^ ということを言いたくて、同じテーマで書いてきました。

今日は別の話題について書こうと思っていたのですが、やっぱり今日も瞑想の安全性というか、素晴らしさについて書きたいと思います。

なぜなら僕自信が瞑想を生活に取り入れだしたことで、劇的変化というわけではありませんが、静かにゆるやかに生活が良い方法に変わりだしたからです。

瞑想を生活に取り入れれば、おそらくどんな人でも、生活の質が向上すると思っています。

瞑想は最近では芸能人やアスリートの人も瞑想していることを公言するなど、市民権を得つつありますが、それでもやっぱり、ある種宗教的な匂いがするとか、なんらかの恐れをもっている人もいると思います。

そういった誤解を解くためにも、瞑想の本質について、今日は僕の理解を下記に綴りたいと思います。


瞑想で発狂するって本当ですか?


瞑想をすると頭がおかしくなる…?

瞑想で発狂した人がいるって本当?

そんな心配を聞いたことがあります。


そういったことが本当にるのかどうかは僕にはわかりませんが(カルト宗教の洗脳的な瞑想ではそういう悲劇もあったのかも? ですが…)、少なくとも僕のまわりでは瞑想をして、心がおだやかになったり、豊かになったり、より幸せになった人はたくさんいますが、発狂した人や不幸になった人も1人も知りません。

というか、そもそもの話しですが…

ちょっと問題発言かもしれませんが…

世界中がそもそも発狂している・・・・・
のかもしれません(^_^;)

どういうことなのか?

例えば、あなたが電車にのっていたとします。

すると前の席にちょっと変わった雰囲気のオジサンが座ります。

そしてそのオジサンは、誰も連れがいないのに、突然大きな声で喋り出します

「まったくちくしょう…! あの犬のおかげで☓&%$#"!&!!!! そっかそっか、うん、(笑)あのいとこ元気にしてっか&%$#"!*+><&%$… くっそ〜〜〜一発くらわしたろか! われ〜 おんどれ〜 &%$#"!&!!!!」

そういう人があなたの目の前にいた場合、あなたはどう思いますか?

たぶん目を合さないようにするのではないでしょうか?(^_^;)

こういう状態の人を世間では頭がおかしい人… といったりしますが、実は世の中のほとんどの人はこのオジサンとそれほどの違いはないのです。

唯一の違いは頭の中の思考を声に出すか出さないか

だけです。

私たちは寝ている時間以外は常に思考をしています。
その思考の内容は、問題を解決するために智恵をしぼっているという思考の時もありますが、ほとんどの思考は、過去の失敗や後悔、未来の心配ごとなどの、決して答えのでない解決することのない、堂々巡りの思考であることがほとんどです。

「あ〜! あの時なんであんなことしてしまったんだろう…」

とか

「なんで私がアイツにあんなこと言われないといけないの…」

とか

「くっそ〜… あの時ああ言い返せばよかった… こんど言い合いになったら絶対言ってやる!」

みたいな思考がぐるぐると頭の中でまわっています。

私たちはその思考を声に出さないので何とも思われませんが、その思考を声にだせば頭のおかしい人… ということになります。

でも、声に出す出さないという違いをのぞけば、考えていることは同じで、そういう観点から見れば、世の中のほとんどの人は発狂している… と言えなくもありません。(少なくとも思考に支配されている)

瞑想に話しを戻しますが、

瞑想こそが、その活動して止まない思考を止めてくれます。

つまり、発狂状態がデフォルトになっていて、瞑想中だけが、思考が止まってまともになっている… ということです。

かくいう僕も欝から立ち直ろうとしている時に、一時期とにかく自分の思考を観察するということにチャレンジした時期がありました。

その時には、自分の思考の止まらなさに思わず笑ってしまいました…

思考を止めよう、観察しようと… まるで不審者を絶対に通さないと気合を入れて門を守る守衛のように、自分の思考が出てこないように見張るのですが、それでも本当に3分も持ちません… 気がつけば全然関係ない思考が浮かび上がっているのです…

まさに思考マシーン… 心はいつでも、〝いまここ〟ではなく、ここ以外のどこかに飛び、過去に未来に飛んでいました…

このように心がバラバラに四散していると、常に心配や不安に振り回されて、
何か物事を成し遂げることなどできません。
また、心おだやかに落ち着いた毎日を送ることもできません。
思考にフラフラと振り回されて、日々は忙しなく過ぎ去っていきます。

瞑想をすることで、はじめてこの思考は止まります。

目を閉じて瞑想している瞬間だけが
思考から自由になれます。
(マスターになれば、瞑想行為中だけでなく、日々の生活そのものが瞑想になります)

思考がない状態とは自我・マインド・エゴがない状態なので、そこには真我しか残りません。

その状態を〝空(くう)〟ともいいますが、この状態は自分が消えて宇宙と一体化したような感覚で、不安や心配とは無縁の静寂の世界です。


瞑想中にこそ思考が起こるんですけど…


ただ、瞑想をすれば思考が簡単に止まるかというと、少なくとも僕の場合は無理でした…

瞑想して思考を止めようと思えば思うほど思考の洪水が押し寄せてきました。

ピンク色の像を絶対に思い浮かべるな! 

と云われると、絶対にピンク色の像を思い浮かべてしまようような現象で、瞑想すれば余計に思考がわいているんじゃないかと思えるほどでした。

でも、本当は、瞑想中にかぎらず僕たちは、四六時中ず〜っと思考しているのです…

瞑想することにより、外部から情報が遮断され、気持ちが落ち着いてくるので、そこではじめて自分の思考があぶりだされるようにして、明るみに出ているだけなのです。

しかし、この思考の波は瞑想を続けることでだんだんと収まっていきます。

瞑想できない… といっていた頃の僕は、いまから思えば5分も瞑想をしていませんでした…。最長でも15分ぐらいだったと思いますが、今になってわかるのは、5分じゃなかなか瞑想状態に入れない…ということです。(すぐに瞑想状態に入れる人もいますが…)

でも、30分も瞑想を行えば、だんだん思考することにも疲れてきて、
瞬間的にでも思考が完全に止まるような瞬間が訪れます。

また、逆説的ですが、思考が起こっても全然構わない… 瞑想できなくても構わない… というふうに、開き直ったり手放したりすると、瞑想状態に入れるようになります。

瞑想は睡眠と同じで、寝るぞ! と気合を入れればなかなか寝付けないように、そして睡眠は行為じゃなくて、睡眠は向こうからやってくるように、瞑想も行為ではなく、瞑想状態が向こうからやってきます。

なので、瞑想中はとにかく思考が起ころうが、集中できてなかろうが、そんなことは一切気にせずに、ただリラックスして、なるがままにまかせていたらいいのです。

30分間、ただ目を閉じているだけでもいいや…

ぐらいに思って力を抜いていると、瞑想は突然やってきます。

瞑想は危険か? と聞かれれば、僕の体験、また妻をはじめ大勢の瞑想に取り組んでいる人をみても危険ではない! と理解しています。

ただ、危険とはまた別の話しですが、瞑想を終えた後の、瞑想状態から活動モードに帰るためのストレッチなどはしっかりしたほうがいいです。

瞑想状態に入ると代謝は睡眠中以上に落ちています、瞑想後にすぐに活動しだすことは、深海の底から一気に海面に急上昇するようなものなので、5分から10分ぐらいは時間をかけて、目をつむったまま、伸びをしたりストレッチをしたりあくびを出したりして、少しずつ瞑想状態を解除しほぐしていったほうが安全です。

…けっこうな長文になってしまいましたが、とにかく伝えたかったのは

瞑想は決して危険なものではありません。

ということです。

瞑想で頭がおかしくなるということもなくて、
逆におかしい頭を正常にもどしてくれるのが瞑想です。
(・∀・)


編集後期

ここ4日間ほど毎日更新してきましたが、今日の更新は夜中の12時を過ぎてしまいました…。でも、まあいいんです(^_^;)

なんとなく今は、毎日更新していこう… という気持ちになっています。

このブログも10万アクセスを超えて、毎日1,000人もの人が読んでくれています。

読みにきてくれたのに、更新されていなかったら、申し訳ないかな… という気持ちもあるし、楽しみにして見に来てくれいてる人もいるかも? とも思ったりします。

そもそもこのブログを書き始めたきっかけは、メンターさんの勧めもありましたが、自分が欝になって、精神世界(真我に目覚めること)のことを勉強したり、体験することで、それまでの不安や疑問がどんどん消えていって、欝が治ったので、その体験や知識を同じ苦しみをもっている人にシェアしたいと思ったからです。

少しずついい時代になっていて、本当の自分、真我に目覚める人が増えてきました。

欝病も本当の自分に目覚めるための神からの恩寵だと確信しています。

自我のがんばりが現界に達した時に、人は欝になるのです。

生きている限り人生には色んなこともありますが、受け止め方や考え方をちょっと変えるだけで、苦しみを喜びに変えることすらできるようになります。(*^_^*)


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